福田英治のひとり言

2020/07/20

月日が経つのは早いものです。先週、母が亡くなって一年が経過しました。毎朝仏壇の前で手を合わせ、一日の中で少なくともその時間だけは無になろうと心がけていますが、何か邪念が浮かんでしまいます。仏壇の前では感謝あるのみと心得ているつもりですが、ついつい何かをお願いをしている自分がいます。宗教観には様々なものがありますが、私が感じている死というものは、身も魂もすべてがなくなってしまうものだと思っています。遺骨も単なる形見の一種です。だから、亡くなった方は現世に残された者の心の中にしか存在しないと考えています。宗教の慣習も一つの時代背景の中でその時の時流に合わせて、人為的に誰かが作ったものとしか思えません。しかし、宗教は自分自身への心のオアシスとして存在し、亡くなった方を完全に消去してしまいたくないという心が存在しているからこそ仏壇の前で手を合わせたり、お墓参りしたりしているのだと思います。慣習を維持することは世間体のためにやっているようなことも多々あるような気がします。長崎の伝統文化にもなっている「精霊流し」を批判するようで少し気が引けるのですが、現代社会における「盆」という行事には、実は私自身全く理解できません。多くの書物やネット情報で検索しても私の宗教観とは合致できないでいます。時代によっては大切な行事であったのかもしれません。しかし、初盆だからとわざわざお参りに来て下さる方の気持ちを踏みにじるわけにもいかないので、初盆の準備をしなければならないのだろうなとジレンマを感じています。

運がいいのか、悪いのか?

運がいいと思っている人と運が悪いと思っている人の違いは何でしょうか?成績を伸ばす人となかなか伸びきれない人との関係にも似ているような気がしています。心理学では「同属性の法則」と言いますが、類は友を呼ぶということです。心がけのいい人にはいい人が、悪い人には悪い人が、周りに集まってきます。教室で生徒たちを見ていても痛感します。授業中におしゃべりをしたり、自分中心にその場をもっていこうとしたりする人には、似たような人が集まっています。運がいいと思っている人は、他者貢献の心理が働きやすく、お布施とか贈り物もあまり惜しまず、常に他者への心配りを忘れずに、他人に迷惑な行為も避けるのではないでしょうか。だから、周りとの人間関係も良くなり、その人のところへ多くの人が集うように思えます。それに対して、運が悪い人はお賽銭でさえも10円しかあげなかったり、お世話になっている人にでさえ気持ちの品を贈ることもしなかったりと感謝の表現ができない人が多いように思います。先月の『PRESIDENNT』という雑誌に掲載されていましたが、運が悪い派の年間のお布施・寄進の金額は5,000円未満が96%、年収500万円未満が87%、係長以下が94%だそうです。いかに他者のために貢献しようという気持ちが少なく、社会的な地位も築けずにそうなるのだろうなと考えてしまいます。そのような人は災害が起こってもボランティアに行くことも厳しいでしょう。もっとも「ニワトリが先か、卵が先か」という論法もあると思います。社会的成功を収めているからこそ、自分は運がいいと思い、他者のために貢献しようという想いが芽生えるのかもしれません。生活に困窮しているからそういう余裕も見つけられないのかもしれません。でも、私たちが短い人生を満喫するためには、運がいいと思う派が多く実践している行動をとらなければならないのではないでしょうか。